NGOフク21は、児童養護施設経験者の居場所づくりや、就労支援、連携サポート、実態調査を行います。

昭和児童養護施設物語

昭和児童養護施設物語

1945年8月15日

巻 第一 「聖(せい)イグナチオ教会」

○「聖(せい)イグナチオ教会」の鐘の声、生かされている響あり。菖蒲(しょうぶ)の紫や白の花の色、頑張る者必衰のことわりをあらはす。持てる者も久しからず。唯(ただ)春の夜(よ)の夢のごとし。地位や名誉ある者も遂(つひ)には滅びぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。遠く太平洋戦争をとぶらへば、陸軍の東條英機、海軍の山本 五十六(やまもと いそろく)空軍の源田実 等(これら)は皆内閣の政(まつりごとにも従はず、軍部の力を極め 諫(いさめ)をもおもひいれ【思ひ入れ】ず、天下(てんが)のみだれむ事(こと)をさとらずして、民心(みんしん)の愁(うれふ)る所(ところ)をしらざ(ッ)しかば、久(ひさ)しからずして、亡(ばう)じにし者(もの)ども也(なり)。

1945年10月4日

巻 第二 GHQの指令 


在日米軍司令官は、日本の治安維持法の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止を指令するなり。東京の池袋や上野にたむろする浮浪者が在日米軍の周辺にてチョコレート等を求めるあまり、GHQのジープ数台に20人余を乗せて東京都下の児童養護施設、調布学園、育成園、至誠学園等へ引き渡す。児童養護施設では少年が逃走しないように施錠をかけて監禁の止む無きに至ったのであった。当時の少年・少女は学校に通学しても教室を別個にされ(学力の差があっため)犬小屋扱いされて思う存分学ぶ機会は与えられなかった。児童養護施設では、捨て子が多く集められてどこの誰かが不明な児童が多かった。例えば、田畑に赤ん坊が捨てられると名前は園・と付けられたり、新宿三丁目で捨てられると新Xと名前をつけられたりし、国籍もなかった。空腹の中、児童は、耐えに耐えた日々を送るしかなかった。

1951年1月21日

巻 第三 午後5時半 5歳「二葉保育園の大火」

○木造2階建て220坪全焼。風呂場煙突から出火。戦災孤児84名&未亡人16名。沐浴中の中学生全裸に白いシーツのみを巻いて身震いしながら、近隣の第三小学校から大火を凝視。いまだ忘却できず!

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